月さえも眠る夜〜闇をいだく天使〜

13.痛み〜アンジェリーク



音の無い雨の気配にアンジェリークは目を覚ました。開いたままの窓から湿った空気が流れ込む。
午前四時ごろであろうか、東の空がうすぼんやりと明るくなりはじめていた。
その幽かな光を細かい水の微粒子がいだいて、世界は淡く、蒼く、染まりつつある。

無彩色の部屋。
その部屋の主の姿は見えない。
起き上がり、ふと体に残る痣を見つけ、夕べの出来事は夢ではなかったのだと改めて実感する。
「気を、使わせてしまったわね……」
空っぽの隣に目をやりながら、少し寂しく思って彼女はつぶやく。
後悔なら、していない。
思いとどまる時間ならいくらでもあったのである。

あの時、間違いなく私はあの人を欲しいと思った。
恋ではなかったかもしれない。
けれど。
正直なのは、体なのか、心なのか。

ふっと、何かを切るようにため息を吐くと、
「帰らなくっちゃ」
彼女は立ち上がった。
今から帰って、シャワー浴びて、出仕の時間にはまだ早いかな。
服を着て、部屋を出た。
館の中はしん、と静まり返っている。
いるか、いないかわからないその館の主に
「ありがとう」
ぽつり、アンジェリークはそう言い残すと霧のようなけぶる雨に濡れながら自分の館へと帰って行った。

◇◆◇◆◇

家に着き、シャワーを浴びようと思う。
全身霧雨のせいでびっしょりである。
冷えた体、あたためなくっちゃ。
そう思いながらも、体が動かない。
そのまま、近くのソファーに倒れ込んでしまった。
母親の体内にいる赤子のようにちいさくまるまり、自分の体を抱き締める。
体の奥が痛む。
はじめて、他人をうけいれた痛み。
でも、それだけじゃない。
なんで?
昨日とは違う、心の痛み。
後悔はしていないって、さっきも思ったじゃない。
なのに、なんで?

言葉も無く、肌を合わせた。
ただ、求め合うままに。
その広い胸にいだかれ、身を預けた時、
―― あのひとの体に流れる、生命の音を聞いたわ。
あの、森の大樹みたい。そう思った。

いだく腕
零れる吐息
ふれる唇
沈黙を破り、たった一言そのひとが言った。
「アンジェリーク」
と。
そう、名を呼んだ。
『誰か』の名を。

あれは、誰の名前?私の名前?
それとも。

ふいに堰を切ったように涙が流れた。
鳴咽が止まらない。
心が痛い。切ない、痛い、切ない。
どうして?
本当は、知っている。その理由を。
あの時に、その名を呼ばれた時に気付いてしまった自分の心。
互いを求めたのは、同じ思いを抱えてるから。ただそれだけ、そのはずだった。
なのに呼ばれた名にこんなにも悲しくなるなんて。
私は、あのひとに、愛されたかったの?

その腕に抱かれながらも、そのひとを遠くに感じたのはきっと。
―― 私にその資格がなかったから。
はじめから、わかっていたことなのに。
愛されているわけでは、ない、ということを。

でも、じゃあ、いったい私は誰を愛していたと言うの?

鳴咽で、息が苦しくなる。
心が、痛い。

夜が明けても、雨は、止まない。


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